想像の犬

想像の犬を飼う。名前はトレイシー。ディック・トレイシートレイシー・チャップマン、トレイシー・メソッドのどれかに由来する。少し歌っているから当ててごらん。Tracy, when I'm with you... 
犬種はその時の気分次第。貴族めいたグレイハウンドも、こましゃくれたプードルも、ありとあらゆる犬がトレイシー。生まれたばかりの子犬であり、瀕死の老犬。オスであり、メスでもある。想像の犬はイデアに近い。
賢く、愉快な、僕の犬。トレイシーはどこにもいたことがないから、どんな記憶にも潜り込むことができる。おぼろげな想い出の中に、スピルバーグの特殊効果より自然に溶け込んで、あたらしい物語を捏造する。食卓の陰でをちびちびとドッグフードの皿をなめるトレイシー。ベッドの上で枕がわりになるトレイシー。人見知りで、珍しく我が家にお客があると、こっそり奥の部屋に隠れていた。秋の銀杏並木で、黄金色の雨を見上げたのを覚えている? そんなこと、一度もなかったけどね!
でも、僕の興味は次第に薄れていくから、じきに君の姿も見えなくなる。君に飽きてしまう。すまないトレイシー。人なんて皆、勝手な生きものなんだよ。僕も例外じゃない。君のことが好きだけれど、脳の細胞は1年ほどで入れ替わってしまうらしいんだ。それが言い訳になるかどうかはわからないけれど。
想像力があれば、人は誰でも犬を飼うことができる。さよならトレイシー。楽しかったよ。いつか、また君のことを思い出せるといいな。