北極

あまりの暑さに気持ちも痛んでしまうから、すこし涼しい話をしよう。僕が仕事をやめて北極で暮らしていた頃のことだ。


静かな毎日だった。持ってきた二冊の本のうち、一冊はすぐに読み終えてしまい、もう一冊は表紙をめくる前に凍ってしまった。僕は本を棚に戻して、温暖化が進むのを待つことにした。ティーバッグをカップに落とす。ツバルが沈む光景を思う。世田谷区の海抜は何メートルだろう。あのスターバックスは海の底でも静かに営業を続けている。窓の向こうを観測船が通り過ぎていく。流氷がぶつかりあって悲しい声で鳴いていた。


静けさにこらえきれなくなって、アザラシを襲ったこともある。僕はおかしな叫び声をあげながら、群れのなかに飛び込んだ。オウオウと鳴きながら、アザラシが方々に散っていく。声は響かない。皆その場で空気に張りついたまま、凍死してしまうからだ。僕は死んだ言葉をかきわけながら歩いた。誰もいない氷原で、クレバスに落ちないように気をつかいながら。


鉈を振り上げ、ありったけの声を振り絞る。吸い込んだ冷気で肺の奥底から凍りついていくような痛みが走った。