ベストパートナー

駅前のファーストフードでホットドッグをほおばっていると、ガラス越しのテラス席にサラリーマンらしき男があらわれた。緑のトレイには灰皿とコーヒー。ランチタイムというにはもう遅いし、出先でひと休みといったところなのだろうな、と想像する。ちょうど僕に背を向けるように腰をかけたので、襟筋に肩こり用の磁気シールが貼ってあるのが見えた。磁石の辺りが丸く突起していて、なんだかスイッチのようだ。押すと、その人にそっくりの外見になるスイッチ。ひょっとしたら彼はコピーロボットなのかもしれない、なんて。いや、まさかね。

でも、もしも彼がほんとうにコピーだとしたら、こんなところでサボっていてよいのだろうか。僕らがもうひとりの自分を求めるのは、ふたりで仲よく遊ぶためではないだろう。逃れられない仕事や家族サービス。僕らに必要なのは、誰にも代われないことを代わってもらえる相手のはずだ。ただ、自分に自分の身代わりを頼むのであれば、あまり期待しすぎてもいけないのだろう。たぶん、窓の向こうで煙を吐いている中年男によく似た男が、どこかの喫茶店で道草を食っているはずだ。

習慣

昼頃に目を覚ます。雨もすっかり上がっていたので、緑を窓辺に出してやる。白い手すりの格子に鉢植を載せ、ステンレス製の計量カップで水をそそぐ。べつに計量カップに特別な意味があるわけではなく、もちろん正確な分量を計っているとかそういうことでもない。むしろいつも目分量だと思う。それなのに、いつのまにかこのカップを使うことが習慣になってしまった。しかたがない。一度決まってしまったルールというのは、なかなか変えにくいものなんだよ。寝惚けたアタマで誰にともなく言い訳をしていると、クツクツと笑いながら土が水を飲みこんでいった。

厄介な問題

行きつけの理容室が店を閉めることになった。
外出ついでに訪ねてみると、いつものガラス扉に見慣れない貼り紙があり、この4月で閉店することが感謝の言葉とともに記されていた。学生のころから通っているので、もう8年ほどになるだろうか。ああ、まいったな、としばらく途方に暮れる。床屋とか美容室といったものを探すのはあまり得意ではないんだ。

食器の洗い方はこう。服のたたみ方はこう。この街ではこの店。あの街ならあの店。日々を暮らす中で、ひとつ、またひとつと、そんな決まりごとが増えていくだろう。こうすれば安心。まかせておけば大丈夫。その店で髪を切るということは、僕にとってまさにそんなルールのひとつだった。行きつけの床屋があるかないか、ということは、暮らしの軸を定める上で少なからず影響があるように思う。とりわけ僕のように地上で月面歩行をしているような人間にとっては。本当にどうすればいいんだろう。

答えの出ないままゴーゴーと頭を吸われ、散髪は終わり。1000円札を渡して店を出ると、雲が厚みを増している。ああ、そういえば雨が降るんだっけ。一応傘は持っているけれど、濡れたくないので家路を急ぐ。剃りたてのうなじに風が冷たく、思わずマフラーをきつく巻いた。

ネコが逃げた

先日、駅前のスーパーに向かって歩いていたときのこと。僕の少し先をネコが歩いていた。べつにとりたててネコが好きというわけではないけれど、あの生きものの佇まいにはどことなく心惹かれるものがある(それから僕は犬っぽい犬を見るのが好きだ。この話はまたいつか)。
とにかくネコはマンションの駐車場からひょいと出てきて、僕の前を歩き出した。品種には詳しくないが、雰囲気からするとたぶん雑種だと思う。やけに悠々としていられるのは、たぶん後ろの存在に気づいていないからなのだろう。でもネコと人間ではやはり歩くスピードが異なるわけで、だんだん距離は縮まっていく。そしてあと5メートル、というあたりでハッとこちらを振り向くと(こちらもハッと足をとめると)、あわてて隣家の陰へと飛び込んでいった。おいおい、それは自意識過剰だろう。なにもしっぽを踏みつけようなんて思ってやしない。
でも、こういう自意識過剰さも生き残るためには必要なのかもしれない。ネコにしろ、スズメにしろ、危険を感じたらとりあえず逃げる、身を隠す。とてもシンプルな長生きの秘訣だ。それはヒトにとっても同じことで、君子危うきに近寄らずなんてよく言ったものだ。なんだか話が長くなってしまったけれど、つまり僕は、ネコも恐れる危うい存在というわけだ。なるほどね。その気持ちはよく分かる。僕だって、逃げられるものならとっくの昔に逃げている。でも、どうやら僕は自分で自分のしっぽを踏みつけてしまっているようなんだ。

円い罠

直線的な時間を生きているような気になっているけれど、僕らをとりまく時間の概念は円環的なものが多い。暦は12ヵ月でひとめぐりだし、干支もぐるりとまわって子にもどる。それは、時間というものが天体の動きをもとに発想されてきたせいかもしれない。東の空を駆け上がった太陽が西の地平線に沈む。あるいは月が満ちて欠けるその周期。その規則性は太古の人々の暮らしと密接に結びついていて、おのずと円い時間の意識が萌芽する。これは例のごとく僕の他愛もない妄想に過ぎないのだけれど、それでも毎日が永遠に繰り返すもののような印象はぬぐえない。

林静一の『赤色エレジー』を読んだことはあるだろうか。美しい漫画で、ラストシーンがとても印象的だ。恋人と別れ、漫画家としても先が見えない主人公・一郎は、苦悩しながらも「明日になれば、朝になれば」と希望にしがみつく。しかし、最後のひとコマで彼は絶望的な事実に気づいてしまう。「昨日もそう思った」と。

だがしかし僕らは老いていく。髪が抜け、シワが増え、肉が落ちる。マンネリとデジャヴュに満ちた毎日は閉じた円環ではなく、螺旋状に延びているのかもしれない。訪れる朝はすべて新しい朝だ。もうすぐ30に手が届くという頃になって、ようやくそれを肉体で理解できるようになったんだよ。

通勤

めずらしく通勤時間帯に家を出る。電車はひと駅ごとにドアが開き、溜息のような音とともに僕らはホームを行きつ戻りつする。波間に揺られる貝殻のような気分、なんていう比喩はあまりに少女趣味かもしれない。でも、いずれ潮のうねりに連れ去られていく僕らにとっては、あながちハズレでもないだろう?
それにしても通勤電車というのは疲れるね。四方を女性に囲まれて、不可抗力の罪人にならないように細心の注意を払っていた。いま身分を問われたら、とてもじゃないけれど説得力のある受け答えをできる自信がないんだ。

untouchable

多摩川沿いを自転車で走る。平日にのうのうとサイクリングを楽しめる身分にうしろめたさを感じないわけではないけれど、そんな焦りも春風に流されてどこかへ行ってしまう。川岸には桜の木がいくつも植えられていて、風が吹くたびに花びらが雪のように散っていく。それはそれでいとおしい日本の春なのだけれど、なんだか演出が過ぎていて僕の性にはあわないみたいだ。でも、中洲を埋めつくす菜の花のみずみずしさには、しばらくペダルを止めてみたくなる。きっと誰も足を踏み入れないまま水の底に消えていく、そんな春があることを、あの人たちは知らないんだよ。